2017/07/26

CEBU観光情報

フィリピンペソのあの人って誰?〜紙幣の人物を解説します〜

2017/07/26
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留学されている生徒たちには既に馴染み深いフィリピン紙幣。なんとなく見て使っているうちに、なんとなくどんな人物なのか気になるけど正直調べるまでの興味はない….。でも今回はいっちょ調べてみようという事でフィリピン紙幣6種類の人物について書いてみたいと思います。

20ペソ 〜マニュエル・ケソン〜

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マヌエル・ルイス・ケソン・イ・モリーナ(Manuel Luis Quezon y Molina)
1878年8月19日にタヤバス州(現在のケソン州)バレル町で生まれ、サン・フアン・デ・レトラン大学文学部に入学し、16歳で卒業。1899年、宗主国であるアメリカ合衆国からの独立運動に参加するため、サント・トーマス大学法学部を中退してエミリオ・アギナルドの革命軍に参加する。1903年に卒業、司法試験に合格して弁護士活動を一年間行った後、タヤバス州知事選に当選し知事を二年間務める。1907年の第一回総選挙に即時独立を求める国民党から出馬し国民議会の議員に当選、与党院内総務を務める。1909年、駐米委員に任命された。安定した政府の樹立を条件に将来の独立を盛り込んだアメリカのジョーンズ法(フィリピン自治法)の成立に尽力、その功績を背景に二院制議会の上院議長に就任した。1935年、新憲法が国民投票で批准され、総選挙でコモンウェルスの大統領に選出された。大統領再選の1941年12月に日本がアメリカに宣戦布告し、翌1942年に日本がフィリピンを占領した後、アメリカに渡り亡命政府を樹立した。フィリピン完全独立を見届けることなく志半ばの1944年8月1日にニューヨークで持病の肺結核により逝去。

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現在のケソン市は、彼の名に由来する。1937年にタガログ語を国語と定めたことから「フィリピン語の父」といわれる。

50ペソ 〜セルヒオ・オスメニャ〜

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セルヒオ・オスメニャ(Sergio Osmeña)
彼は、セブ市出身の第三代フィリピン大統領。
1878年にセブで生まれ、サン・フアン・デ・レトラン大学で学び、後にサト・トーマス大学で法学を専攻する。米西戦争の影響で学業は中断を余儀なくされたが、1903年に最高裁が司法試験の受験を認め、二番の成績で合格した秀才である。1900年、自らが創設したセブの日刊紙「エル・ヌエボ・ディア(新時代)」において平和的手段を通じた独立運動を推進。1904年、セブ州知事に就任。1906年、独立を綱領とする政党禁止令解除後の民族主義政党の合従連衡により結成された国民党の初代党首となった。

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1907年の第一回総選挙で国民議会議員に当選。1923年には上院議員に選出された。1933年、独立使節団として尽力したアメリカ議会のヘア・ホーズ・カッティング法(10年後の独立承認)はマニュエル・ケソンの反対によりフィリピン議会で批准されず、タイディングス・マクダフィー法を持ち帰ったケソンが1935年のコモンウェルス成立時の大統領となり、その下で副大統領となる。1944年8月にアメリカでケソンが病没した事により亡命政府の大統領に昇格した。1944年10月23日、ダグラス・マッカーサーとともに帰還し、コモンウェルス政府の復活を宣言、1945年2月27日、戦後初の大統領選でマニュエル・ロハスに敗れ、政界を引退した。1961年10月19日、83歳で死亡。

100ペソ 〜マニュエル・ロハス〜

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マニュエル・ロハス(Manuel Roxas)
彼は第5代目フィリピン大統領であり、日本との繋がりの強い人物。フィリピン3度目の独立宣言をし、現在のフィリピン共和国が誕生した時の大統領である。日本軍の進攻が始まった時に、日本と戦うべく、志願してフィリピン軍の指揮に当たる。しかし、日本軍に捕らえられ、マニラの軍司令部から処刑せよとの命令が出されたときに、この時に偶然出会った神保信彦中佐は、やつれてはいたが眼光鋭く気品のあるロハスを一目見て、これはただ者ではない、と感じたそうだ。

日本軍とは戦ったが決して親米でもなく、あくまで祖国フィリピンの独立を求めていた。ロハスは日本の歴史にも詳しく、日本は仁義ある国で、ドイツのように捕虜を虐殺したりしないと信じているとまで言われている。これは、フィリピンのためにどうしても生かしておくべき人物だと考えた神保は、マニラの軍司令部に掛け合い処刑命令を撤回するよう物申し、「ロハスを当分宣撫工作に利用すべし」との軍命令をもらった。このようにして、ロハスはミンダナオ島北部にあるマライバライで、約2万人の捕虜を取り仕切る役を命ぜられた。
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1944年10月にはタクロバンを臨時首都としてフィリピン独立準備政府を再開し、翌年2月には、フィリピン独立準備政府はマニラに帰還。1946年フィリピン独立準備政府最後の選挙が行われ、ナショナリスタ党から分裂したリベラル党のロハスが勝利、6月の議会でアメリカのフィリピン復興法・通商法(ベル通商法)が承認される。7月4日、ロハスは戦後初のフィリピン大統領に就任し、3度目の独立を宣言を行った。このようにして、現在のフィリピン共和国が誕生した。

500ペソ 〜ベニグノ・アキノ・ジュニア/コラソン・アキノ〜

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ベニグノアキノ ジュニア(Benigno Simeon “Ninoy” Aquino, Jr.)(右)

第15代目フィリピン大統領。独裁体制を敷いたフェルディナンド・マルコス大統領時代、国民に広く人気があったベニグノ・アキノは、マルコス政権にとっての脅威であり、国外追放されていたが、追放先のアメリカ合衆国から帰国した際、マニラ国際空港で暗殺された。

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ニノイの死後、エドゥサ革命によりマルコス政権は崩壊し、ベニグノの妻コラソン・アキノ(左)がフィリピン大統領に就任する。

1,000ペソ 〜ホセ・アバッド・サントス/ビセンチ・リム/ホセフア・リァーネス・エスコダ〜

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ホセ・アバド・サントス(José Abad Santos)(写真上)
フィリピン独立準備政府(コモンウェルス)の最高裁判所長官、日本軍侵攻時には非占領地域大統領代行を務めた。バターン半島の戦いで米比軍は日本軍に敗れた際、ケソン大統領とマッカーサーは1942年3月にコレヒドール島要塞を放棄しオーストラリアに脱出。この時、アバド・サントスもマッカーサーに同伴して脱出することも可能だったが、フィリピン残留を決意。脱出するケソン大統領より、非占領地域の「フィリピン大統領代行」に任命され、後を託された英雄。

ビセンチ・リム(Vicente Lim)(写真中)
米国国防大学を卒業した初めてのフィリピン人。日本軍の侵攻時に活躍をしたフィリピン軍の将軍ですが、後に日本軍の手によって処刑された。

ホセフア・リァーネス・エスコダ(Josefa Liane Eskoda)(写真下)
フィリピン女性解放の先駆者にしてフィリピンガールスカウトの創設者。同じく日本軍に協力を強制されそれを拒否したことにより処刑された。20170712_105855

まとめ

ショッキングな事に1000ペソに写っている3人とも当時の日本軍によって処刑されており、抗日の英雄としてフィリピンの人々に周知されています。時系は第2次世界大戦の前後で、フィリピンとアメリカは強いつながりがあったため、日本に関わる事柄もたくさん出てきました。特に、唯一歴代大統領ではない人物の紙幣が最高額紙幣で「抗日の英雄」。フィリピン留学中の皆様の中でも過去に日本がフィリピンにどれほどの残虐な事をしかのか知る人は多くない様に感じます。マニラでは未だに日本軍の大量虐殺跡地などの観光地があります。

何かの巡り合わせでフィリピンという異国の地で英語を学んでいる機会に是非少しだけでもフィリピン、日本の歴史に目を向けて見てはいかがでしょうか?きっと何か見えてくる物があるかもしれません♪

この記事を書いた人
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